『新しい公民教科書』と『大人のための公民教科書』

一昨日、「新しい歴史教科書をつくる会」総会が開催された。その場で〈『新しい公民教科書』5版の意義――他社公民教科書、『新しい公民教科書』、『大人のための公民教科書』の比較〉と題して30分ほど話す機会を得た。話す中で、『新しい公民教科書』の意義、『大人のための公民教科書』の意義について改めて考えをめぐらすことができた。そこで、総会では『新しい公民教科書』の意義について焦点を当てて話したが、今回のブログ記事では、むしろ他社公民教科書や『新しい公民教科書』との比較において、特に『新しい公民教科書』との比較において、『大人のための公民教科書』の意義について述べていきたい。基本的に、総会で配布したレジュメを基に記していくことにする。

他社教科書と言っても、未見の令和5年度検定合格教科書ではなく、令和元年度検定合格教科書のことを指している。ちなみに、令和元年度検定合格の他社教科書とは、東京書籍、日本文教出版、教育出版、帝国書院、育鵬社の5社である。

Ⅰ、他社公民教科書一般の特徴

家族、私有財産、国家の否定

 まずは他社公民教科書の特徴から記していきたい。極めて総括的に言えば、何度も言ってきたことだが、第一に、東京書籍を初めとした他社公民教科書は、家族、私有財産、国家についてきちんと説明しない。エンゲルスに『家族・私有財産・国家の起源』という本がある。マルクス主義の経典の一つであるが、家族、私有財産、国家の三者すべてを否定する思想を展開したものである。この『家族・私有財産・国家の起源』の思想に基づき、公民教科書はつくられている。

 家族、私有財産、国家の三者すべてを否定する思想は、共産主義者とグローバリストに共通のものである。彼らにとっては、人類全体を管理するためには、三者は邪魔なものである。私有財産を持った家族がしっかりあれば、個々人は自立し「精神の自由」を得ることができるし、「精神の自由」、特に表現の自由を基に自由民主主義の社会が形成される。共産主義者とグローバリストにとっては、個人の自立や自由民主主義は邪魔なものであるから、家族、私有財産、国家の三者すべてを否定しなければならない。この三者否定の思想を広める装置が公民教科書になっているのである。

私有財産の意義を説かない

 具体的に言えば、ここでは私有財産のことだけ記しておく。戦後日本の公民教育では、本当に長い間、私有財産の積極的意義が説かれることはなかった。経済活動の自由の一環としての財産保持の自由・私有財産制→「精神の自由」→民主主義という論理構造が教えられることはなかった。そもそも他社は、自由権全体を1単元2頁にすべて押し込んでいるし、職業の自由などの経済活動の自由全般に11行ほどしか分量を割かない。そんな状態だから、上記の論理構造など全く示さないのである。家族や国家に関しては記述している育鵬社も、経済的自由に関しては東京書籍などと全く同じなのである。

家族、地域社会、国家、国際社会という四段階の社会構造を説明しない

家族論、地域社会論がない

 第二に他社教科書は、家族、地域社会、国家、国際社会という四段階の社会構造を説明しない。四段階の社会構造を説明していないということに気付いたのは4年前だが、その時本当に驚いたことを思い出す。
具体的に家族から順に説明するならば、平成20(2018)年度学習指導要領の改訂以来、家族と地域社会を書かなくても検定合格できるようになった。その結果、育鵬社以外の他社は全て家族のために単元を割り当てることさえしない。東京書籍など3社は10行程度で家族について記すだけである。教育出版に至っては、4行しか家族の説明に充てていないのである。国家社会の一番の基本である家族について、現代の公民教科書はほぼ教育を放棄しているのである。

 また、地域社会についても、教育出版と育鵬社は地域社会のために1単元を設けているが、東京書籍などの3社は特別に単元を設けてはいない。ただし、地域社会論の無視は、導要領改訂以前からある動きではある。

国家論がない

 次に国家論についていえば、国家論は、昭和20年代以来一貫して存在しない。国家論が存在しない理由は明確である。「日本国憲法」第9条の平和主義条項のせいである。第9条で自衛戦力と交戦権を否定したと捉えるならば、国家論を展開することはやばいこととなる。国家論を展開すれば、国家の役割として防衛を挙げざるを得なくなる。防衛を挙げれば、自衛戦力と交戦権を否定したとされる第9条と矛盾することになる。なんでこんな9条があるんだ、なぜ、自衛戦力と交戦権を肯定する9条解釈をしないんだ、という疑問が生徒から出てくることになる。

 この疑問を封ずるために、昭和20年代の公民教科書は国家について全く触れない方針をとっていた。昭和30年代以降はさすがに国家の対外主権の存在については記すようになったが、国内政治の箇所では、国家とはそもそも何か、どういう役割を持っているのかということについて全く触れようとしない。他社の中では最もましな育鵬社にしても、国内政治編の箇所で国家論を全く展開しない。結局、第9条というのは、国家論の教育を抹殺してきたのである。そのことに深く注意しなければならない。

国際社会論もない

 最後に国際社会論についていえば、地球社会論はあるのかもしれないが、国際社会論という考え方は存在しない。国際社会とは、国益をめぐって軍事力や経済力、思想の力を使って各国が競争し合う社会であるが、そういう捉え方は他社には存在しない。何しろ、育鵬社以外のすべての他社には、国益という概念がない。このことに気付いたとき、10年ほど前かもっと前か忘れたが、そのことに気付いた時には本当に驚いたことを憶えている。少なくとも育鵬社以外の他社は、軍事力なしに、話し合えば国同士は仲良くなれるというお花畑世界観に基づき物事を捉えるのである。

Ⅱ『新しい公民教科書』5版(3版以降)の意義

家族、私有財産、国家の意義を説く
 
 3版(平成23=2011年使用開始版)以降の『新しい公民教科書』は、何よりも第一に、家族・私有財産・国家を守るためにつくられた。それゆえ、既に家族論を展開しなくなりつつあった公民教科書の世界であったが、3版の段階以来、2単元で家族論を展開した。従来の他社が1単元で記すところを2倍に増量したのであった。ところが、他社は、逆に一気に家族論を展開しなくなっていったのであった。

 次いで、4版(令和3年=2021年以使用開始版)以降、「経済活動の自由」という単元を設けて2頁で経済的自由権を説明した。そして、私有財産制の意義を説き、上に示した経済活動の自由の一環としての財産保持の自由・私有財産制→「精神の自由」→民主主義という論理を展開した。

 そして、3版以降の『新しい公民教科書』は国家の役割について4つに整理して示した。第一に防衛、第二に社会資本の整備、第三に法秩序・社会秩序の維持、第四に国民一人ひとりの権利保障である。昭和20年代以来既に、第一の防衛という役割は昭和20年代以来、日本国家は放棄してきていた。他の三つの役割は一応維持し続けてきたが、平成に入ってから、新自由主義という国家否定思想の跋扈に伴い、第二、第四、第三という順序で3つの役割を放棄してきている。国家の役割を一つずつ放棄してきたわけだから、日本国家の滅亡が囁かれるのも当然のことだと言うべきである。

家族→地域社会→国家→国際社会という四段階の社会構造を説明する

 第二に、『新しい公民教科書』の特徴は、家族→地域社会→国家→国際社会という四段階の社会構造を説明していることである。前述のように、他社公民教科書は4段階全てについてまともに扱っていないことと比較して、際立った特徴といえよう。本来公民教育というものは、社会全体の構造を説明することである。全体構造を説明するならば、家族→地域社会→国家→国際社会という四段階の社会構造を説明することは、どういう立場に立とうと必ず行わなければならないはずのことである。それを他社はサボタージュしているのである。何とも恐ろしい話である。こういうふうに、国家なき、家族なき公民教育を受けた人たちが国のリーダーになってきたわけだから、日本社会も日本国家も崩れていくのは当然だと言えよう。

グローバリズムへのささやかな抵抗

 第三に、『新しい公民教科書』の特徴は、平成20年学習指導要領以来猛威を振るうグローバリズムへのささやかな抵抗を示したことである。3版以来『新しい公民教科書』は、グローバリズムの負の側面を記してきたが、5版では単元1でミニ知識「グローバリズムと反グローバリズム」という小コラムを置き、グローバリズムと反グローバリズムとの対立が現在の最大の問題だと記した。また、単元69「地球環境問題と国際協力」にミニ知識「地球温暖化とCO₂」という小コラムを置き、地球温暖化人工説に対する異論を示した。ちなみに、ミニ知識「グローバリズムと反グローバリズム」は検定意見がつきほとんど文章が書き換えられてしまったが、ミニ知識「地球温暖化とCO₂」という小コラムには検定意見はつかなかった。

 また、第4版以降の『新しい公民教科書』は、公民教科書史上初めて「日本国憲法」成立過程史を歪曲なく書いた。議会審議が完全にGHQ及び極東委員会に完全に統制されていた事実をはじめて書いた。特に、国民主権が明記されたのが、衆議院憲法改正委員会内小委員会の審議中に極東委員会から命令された結果であることを記すことができた。つまり、連合国に完全統制されて「日本国憲法」がつくられたこと、「日本国憲法」成立過程の真実を示すことができたのである。現代のグローバリストとは1930年代・40年代における連合国の末裔であると言えるから、成立過程の真実を記すことは、グローバリズムへのささやかな抵抗を示すものと言えよう。

 ともあれ、『新しい公民教科書』は、6社の公民教科書の中で唯一、家族・私有財産・国家を守る教科書であること、四段階の構造を説明する教科書であることを強調しておこう。

Ⅲ、『新しい公民教科書』の限界と『大人のための公民教科書』

『新しい公民教科書』の限界――憲法無効論が存在する事さえも書けない

 ただし、いくら家族・私有財産・国家を守ろうとしても、検定を受ける限り、『新しい公民教科書』も、どうしても他社教科書のような非国家的な、あるいは家族破壊的な要素をはらまざるを得なくなる。どうしても、『新しい公民教科書』には限界が多数生まれることになる。

 分かりやすい話としては、憲法無効論の記述がある。いくら何とか真実の「日本国憲法」成立過程史を書いたとしても、だからと言って、検定教科書では「日本国憲法」は無効であるとは書けない。『新しい公民教科書』第4版では、側注で、独立国の憲法はその国の自由意思でつくられるものであり、国際法では占領下の憲法改正を禁止しているとし、フランス憲法も被占領下で憲法改正を追求することは禁止されていると記した。ここまでは検定権がつかなかった。

 しかし、この後に記した「それゆえ、成立過程からして日本国憲法は憲法としては無効であり、新しい憲法は大日本帝国憲法の改正という形で行うべきだとする議論が根強く存在する」という記述は、検定の結果、全面的に削除されてしまった。無効論につながるような記述は出来るのに、無効論が存在する事さえ書けないのである。

 しかし、無効論は昭和30年代以降根強く存在する議論であるし、2000年代以降相当に広がった学説であるのに、その存在さえも教科書に書けないわけである。要するに、検定によって、学問の自由、思想の自由が侵害されていることに注目されたい。

『新しい公民教科書』のその他の限界

他にも検定教科書では書けないことが数多い。例を挙げると以下のようになる。

・自衛戦力と交戦権を肯定する9条解釈を書けない

・天皇権威論、元首論、立憲君主制論を正面から書けない


・「政治に従う立場」を書けない
  国家との関係における国民の四つの立場、すなわち「政治に参加する立場」「政治に従う立場」「政治から利益を受ける立場」「政治から自主独立の立場」のうち、「政治に従う立場」を書けない。『新しい公民教科書』3版では書くことができたが、4版で検定意見がつき削除され、5版でも検定で削除された。おかしなことに、現行版の育鵬社は「政治に従う立場」を書くことを許されている。

 ダブルスタンダードの問題もあるのだが、本質的には戦力放棄・交戦権放棄の思想が影響している。教科書調査官ら検定側は強固に戦力放棄・交戦権放棄の思想を抱いており、国家による強制の面をできるだけ無視したいという思いが強い。その結果、自由社が「政治に従う立場」を書くことを許さないのであろう。

・親の懲戒権を書けない、いや子供を𠮟ることさえも書けなくなった
 今回の『新しい公民教科書』は、検定申請本の「民法と家族」という単元の本文で、親権者は「養育上、必要と思われる範囲内で叱ったり、罰をあたえることができます(懲戒権)」という一文を記していた。これに民法が改正されたではないかという検定意見が付き、全面的に削除されてしまった。代わりに作られた本文は「親権者は、社会的に許容される正当なしつけを監護及び教育として行うことができます」というものであった。

 私は、教科書調査官との議論の中で、「懲戒権は削除されたが廃止されてはいない」と主張した。このことを調査官は初めて知ったようで驚いていたが、この時もその後も「いや懲戒権は廃止されたのだ」という反論はなかった。とはいえ、懲戒権の言葉を載せることは諦め、修正本文に「正当なしつけの中には、子供に問題行動のあった場合に必要と思われる範囲内で叱ったり小遣いを減らしたりするなどのことがふくまれる」という側注を新たに付けることにした。ところが、調査官は、この新側注さえも認めなかった。「叱ったり小遣いを減らしたりする」というところが気に入らなかったのだ。

 これには本当にびっくりした。私は頭を抱えてしまった。学問的には親の懲戒権は認められているのに、「懲戒権」という言葉だけではなく、叱ることさえ書けないのだ。本当に異常だと思った。結局、9条が存在し、その9条を自衛戦力否定説と交戦権否定説で理解している限り、社会思想、国家思想がおかしくなってしまうしかないのだと考えるに至った。

さらに他に描けないことを、思いつく範囲で記すならば、次のようになる。
・国債貨幣論を書けない

・日米合同委員会の真実を書けない

 今回初めて「日米合同委員会」のことを書いたが、何とか削除されずに済んだ。このことはよかったのだが、極めて無内容なものになってしまった。端的には、最後に「わが国は、日米合同委員会を通じて、アメリカに対して軍事的隷属状態に置かれているのである。当然ながら、軍事的隷属は、外交政治経済面における従属にもつながる。9条問題の解決が望まれる」と書いていたのだが、「わが国の安全保障問題はアメリカと強く結びついている」という記述に変えられてしまった。

・消費税は直接税であるとは書けない
 今回の検定申請本では、税金の分類表のところで、直接税の一例として消費税を入れていたのだが、間接税のところに移動させられた。

・地球温暖化人工説は嘘だと書けない
 明確にこの説は嘘なのに、この説に対する疑問は書けるが嘘だとは書けない。
 
『大人のための公民教科書』は『新しい公民教科書』の限界を突破するために作られた 

 以上挙げたこと以外にも多数の限界が、『新しい公民教科書』には存在する。それらの限界を破ることは当面不可能である。そこで、その限界を突破するために作ったのが『大人のための公民教科書』である。それゆえ、『大人のための公民教科書』の特徴は、第一に、家族、私有財産、国家の三者を守るために、特に家族と国家に関する意義の追求を深めているということになる。

 第二に、『新しい公民教科書』の限界を突破して、『新しい公民教科書』が示していたグローバリズムと連合国へのささやかな抵抗を越えて、明確な抵抗を表していることである。それゆえ、『大人のための公民教科書』は、最低限、『新しい公民教科書』が書けなかった上記の点を全て書いている。
 
 他社の公民教科書、『新しい公民教科書』、『大人のための公民教科書』の三者の関係は、以上のようなことになるのであろう。

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この記事へのコメント

すめらぎいやさか
2024年05月21日 05:53
日米合同委員会の最後の部分「わが国は、日米合同委員会を通じて、アメリカに対して軍事的隷属状態に置かれているのである。当然ながら、軍事的隷属は、外交政治経済面における従属にもつながる。9条問題の解決が望まれる」はとてもすっきりしていますし、つくる会の教科書っぽくて好きなのですが、こうも断定的だと文科省の標的になりやすいと思います。
他社のように「こうした事実から、我が国は日米合同委員会を通じて「アメリカに対して軍事的隷属状態に置かれているのではないか」という指摘もあります。軍事的隷属は外交や政治、経済面の従属につながるため、9条問題の解決を望む声も根強く存在します。」みたいな書き方の方が文科省の検定をパスしやすいと思います。
事実、歴史教科書では古代・中世あたりまでは「新しい歴史教科書」より挑戦的な竹田氏の「国史教科書」が今まで通らなかったことを大量に書いて検定を通過しています。近代史や現代史でやや自虐史観的な記述があることもありますが、「〇〇という可能性もあります。」「〇〇ではないかという指摘もあります。」という表現が多いのもその理由の一つだと思います。
南京事件ではつくる会よりも挑戦的なことをしており、極東国際軍事裁判所での認定(※裁判への疑問はない。)、事件をめぐる諸説と中国の三十万人説を書いた上で「当時、国民革命軍の軍人の多くが民間人に扮して便衣兵と呼ばれるゲリラ兵となって民間人を人質に立て籠もり、あるいは敵対行為をしていました。これは国際法違反でした。逮捕され処刑された便衣兵も多く、これを「虐殺」と指摘されている可能性もあります。また、日本軍入城時の南京の人口は二〇万人程度でしたので、三〇万人を虐殺することは不可能です。また、日本軍が南京を占領してから1ヵ月後には人口が五万人増加していますが、大虐殺の直後に五万人が移住してくるわけがなく、三〇万人大虐殺の根拠はいまだに示されたことがありません。」と書いています。
南京事件がなかったと読めますし、検定意見が付きそうですが、結論が三十万人大虐殺の否定に落ち着いているからか、初版以来一度もこの部分には検定意見が付いていません。文科省はひたすら、一番最初に中華人民共和国の主張を書くな(東京裁判を書け)、南京事件がなかったという説は学説ではないと言うだけでした。
小山 常実
2024年05月21日 10:04
コメントありがとうございます。
 日米合同委員会に関しては文科省の標的になったとは思っていません。最初は断定的に書くしかないと思いますし、その後に指摘されているような慎重な書き方になっていって合格ということになるのだと思います。
 それはともかく、他社も日米合同委員会を書いているのですか。前回までは書いていないと思いますし、今回の『新しい公民教科書』が初めて合同委員会を書いたと思っていました。