私は何が気に入らないのか……アメリカや中国からの独立方法、ディープステートからの独立方法を考えよう

この3年間の認識の深化

 この数年間、少なくともこの3年間、私は足踏みをしている。自己のライフワークの進展はゼロに近い。

 とはいえ、2020年11月3日以来の世界に起きた一連の出来事は、私の目を開くことになった。ある意味1970年代から、正確には10数年前から知っていたことではあったが、国際金融資本家などによる世界支配を明確にリアルに知ることとなった。

 また、3年ほど前から、とりわけ昨年1月6日以来、有料動画や無料動画をよく見るようになった。ととにも、これまで余り読んでこなかった分野の本も読むようになった。その中で、いろいろ広い、あるいは深い見識を示す多くの論者を知り、感心するとともに随分学ばせていただいた。

 だが、最近、いろいろ落胆を感じるようになった。一つは、随分刺激的で面白い考え方を示すのだが、かなり不正確な事実関係を述べる人が1、2目についた。二つは、客観政治情勢の上からは主張していることに間違いはないのだが、所詮、現実に歴史戦なりを戦う人の気持ちや考え方を知らずに述べている客観論に過ぎないのではないかと思う場合も多々あった。主体論も踏まえてどうすべきか考えるならば、少々違う政策になるのではないかと思ったりした。主張通りに行っていたのでは、歴史戦なりを戦う主体が潰れていってしまうようにしか思えなかったからだ。特に2015年の日韓合意やアメリカ議会における安倍演説などをめぐる問題に関してのことを指している。

 とはいえ、いろいろな人のいろいろな意見に接して大いに勉強させてもらったし、それが楽しい経験でもあった。

認識の深化とともに感じる落胆

 上に見た二点のような落胆は小さなものだし、特に二点目は無理筋の不満であるという感じもしている。

 しかし、もっと大きな落胆というか、すべての論者について感じている落胆または不満がある。それは、➀安倍改憲案批判がないこと、②ヘイト法批判がないこと(ヘイト法廃止論がないこと)、➂親の懲戒権廃止案への批判がないことだ。三回前の記事で見たように、自主防衛体制の欠如こそが、アメリカの不法不当な要求を受け入れて衰退していくことの根底にある。その意味では、自衛戦力と交戦権の肯定こそが根本的に必要な策である。しかし、安全保障問題を論じていても、あるいは日米合同委員会による農業破壊の推進の事実を指摘していても、決して自衛戦力と交戦権の肯定の問題に触れようとしないのである。

 また、実は、ヘイト法という日本人差別法は、外国人参政権運動を推進する思想的根拠となっているし、移民政策の推進、少子化政策、日本人貧困化政策の思想的根拠ともなっている。しかし、ほとんど例外なく、ヘイト法批判を行う論者は居ない。ヘイト法という日本人差別法は、日本人を差別して日本から戦力と交戦権を奪った9条と関係しているし、これらの究極の背景には、日本人差別の「日本国憲法」前文がある。これらの問題に切り込む論者は一人もいない。

 さらにいえば、夫婦別姓に強く反対する論者はかなり存在するが、親の懲戒権廃止に反対の論陣を張る人は皆無のようである。間違いなく、夫婦別姓などよりストレートに家族を破壊するものであるにもかかわらず、なぜ反対の声が聞こえないのか、本当に不思議である。

 なぜ、これら三点のことを誰も主張しないのか。日本にだけ交戦権と戦力を認めないのも前文に示された日本人差別意識からくるものではないか。積極財政主義に転換せず日本人を貧困化する政策も、結局は前文とヘイト法に表現された日本人差別意識からくるものではないか。家族を共産主義者とクローバリストから守ることが保守の一丁目一番地だと思うが、なぜ、親の懲戒権廃止に反対しないのか。

 おそらくは、安倍氏が三点すべてに反対だから、そしてアメリカ民主党も反対だから、誰も主張しないのではないか。安倍氏が➀②に反対なのははっきりしているが、➂についてはよくわからない。もっとも、3年前には議会の一致した意見が親の懲戒権廃止であったから、安倍氏もそうだろうとは推測できよう。

9条②項の解釈転換を

 というようなことを記してきたが、本日、西村幸祐氏から『九条という病—憲法改正のみが日本を救う』(ワニブツクス)という本をいただいた。今、ぱらぱらと眺めてみたが、最後に、次のような「日本国憲法」第9条第2項の改正案が示されていた。

 前項の目的を達するため、我が国は国防軍(あるいは国軍)を保持する。

 これで軍隊をもてるようになることは確かだが、果たして交戦権はどうなるのか。交戦権は認められるのか、認められないのか、よくわからない。交戦権も戦力すなわち軍隊も本来認められるべきものであるから、特に否定する文言がなければ認められているとの解釈は十分成立する。当然の解釈である。西村氏の本意はそこにあると信ずる。であれば、西村案は、これが成文となるとすれば、安倍改憲案とは一線を画するものとなる。憲法改正と叫ぶ人たちのほとんどが今や9条第2項護持の自衛隊明記論である現状の中では、勇気のある提案である。

 しかし、現在の「日本国憲法」と改正された「日本国憲法」を比べる観点からすれば、「国防軍」は新たに付け加えられたから確かに認められるのだろうが、「交戦権」は書いていないから認められることにはならないという論理も十分成り立つであろう。もしも、交戦権が認められないのであれば、安倍改憲と余り変わらないことにもなりかねないのではないか。しかも、ぱらぱらと見た限りでは安倍改憲案に対する批判は全くないようであるから、結局は、中間をとる形で、認められる交戦権と認められない交戦権といった歪な解釈が成立しかねないことになるのではないか。 

 だが、本当の問題はそこにはない。安倍改憲案が2017年に提起され、それにほとんどの保守派が賛成してしまった。安倍改憲案に保守派が賛成する以前だったら、まだ9条改正案は少し意味があったかもしれない。だが、そのときから5年も経過している。2017年に安倍改憲案を徹底的に批判する言論が現れるべきだったが、私の『自衛戦力と交戦煙を肯定せよ』(自由社、2017年)以外現れなかった。そのような流れに鑑み、いざ憲法改正が成立するという状況になったら、西村案ではなく、ほぼ安倍改憲案が通ることになろう。

 安倍改憲案とは、永久属国化路線の選択である。「日本国憲法」の正当性・正統性問題を問うことなく、「日本国憲法」改正という道を日本の保守派、それも「保守の希望の星」であった安倍氏が選んだ時から、3分の2条項に制約されて必然的に安倍改憲案が生れたのである。すなわち、憲法改正路線は破綻し、改悪路線に転化してしまったのである。結局はアメリカに強制された「日本国憲法」を正当化する害悪をもたらすだけの方策になってしまっている。私は、そのように考えるようになっている。

 憲法改正ではなく、9条②項を自衛戦力と交戦権を肯定するものに解釈の転換をすることこそが、現在日本がとるべき道である。9条②項は国際法に反する規定であるし、普遍的な国家論に合わない規定であるから「日本国憲法」成立過程が普通のものであり有効であったと仮定しても、9条②項は無効であるとの見解は十分成立する。また何度も言っているが、自衛戦力と交戦権を肯定する学説は存在する。その学説に従い、自衛隊を戦力と認め、他国の軍法に見習って、自衛隊法他を改正乃至新設すればいいわけである。

 実際、私立学校への援助や裁判員裁判制度は、特に後者は「日本国憲法」に違反している制度である。にもかかわらず、実施されている。これに対して、9条②項の現在の解釈は、一般国際法と普遍的国家論に違反したものである。一般国際法と普遍的国家論に合うように解釈すれば、自衛戦力・交戦権肯定説に行き着くのである。

 自衛戦力・交戦権肯定説に基づき、自主防衛体制を築くことが、アメリカや中国から、諸外国から独立する王道であり、一番の近道である。ともかく、多くの人が『自衛戦力と交戦権を肯定せよ』を読まれることを望む。

ディープステートからの独立方法を模索せよ

 諸外国からの独立方法は、昔からはっきりしている。何よりも軍事的自立であるから、自衛戦力・交戦権肯定説に基づき、自主防衛体制を築くことである。そして通貨発行権の護持または回復ということもあろう。細かくは他に色々あろうが、基本は自主防衛体制を築くことである。

 これに対して、ディープステートからの独立はどうしたらよいのであろうか。デイープステートの意向の多くはアメリカを通じて達成されているから、アメリカからの独立はそのままディープステートからの独立方法の一つとなる。他には、通貨発行権の回復、会社法などの改正による株主資本主義からの脱却、民主主義の再建、基本的人権の再建、家族と私有財産と国家の護持、などと抽象的には言うことができるが、その具体的な方法が私にはわからない。いろいろな論者の動画を見ていて歯がゆく感じるのも、この点だ。客観分析はわかるが、ならばどのようにしてディープステートによる支配から脱するのか、という方法が語られることはほぼないからだ。
 
 赤字は、6月12日に付加した部分である。

  転載自由
 

 





  


追記、6月12日記……前文の問題点について再度記す
……最近、改めて気づいたことがある。いわゆる改憲路線のマイナス点にに関してだ。「日本国憲法」改正という行為は、いかがわしい作られ方をした「日本国憲法」を正当化してしまい、日本の憲法制定権を毀損する行為であるということをマイナス点の主要なものとして、私は挙げてきた。最近は、そのことともに、改正しなかった部分が完全定着してしまう危険性のことを考えるようになった。特に前文の思想の定着のことだ。前文は、著しい日本人差別思想に基づき書かれている。諸外国の保護国になります、と宣言してるからだ(拙著『「日本国憲法」無効論』第1章)。

 この前文が表す日本人差別思想は、本文でも述べたように、ヘイト法、自衛戦力と交戦権を否定する9条解釈、日本の農業破壊政策、日本人貧困化政策などのすべての根底にある。その意味では、9条以上に、前文こそが最大の問題なのだ。前文こそが一番批判されるべきものなのだ。

 なお、本記事を記して、頭の整理はついた感がする。後は、体調管理の問題が残っている。早めに体調を回復させて、公民教科書に取り掛かる前に、親の懲戒権問題の資料読みと問題整理を片付けておきたい。ともかく、昨日は少し無理したから、体を休めることにする。


追記2、6月12日記……ブログ移転に伴いカテゴリー分類時に気付いたこと5月下旬に、拙ブログをウェブリブログからシーサーブログに移転した。その際、カテゴリー分類しなければならなかったので、1千余の記事内容をざっと把握しなおしていった。その中で気付いたのは、私が言論機関の中での発表機会をどんどん失っていったのは必然だったということである。今は、『史』に時々公民教科書関係の論考を掲載する機会が与えられるだけとなった。1千余の記事を眺めてみると、カテゴリー分類で記事数の多いものを挙げてみると、以下のようになる。ほとんどが育鵬社系・安倍系の主張と対立する事柄にかかわるものだ。

歴史教科書329
育鵬社丸ごと盗作問題121、教科書改善の会12……計133
公民教科書235
「日本国憲法」無効論72、憲法論15……計87
時事問題132


 歴史教科書関係、育鵬社盗作関係、公民教科書関係は、育鵬社に対して教科書内容的な批判となる。そのうち育鵬社盗作関係の分は、育鵬社歴史教科書の作り方に対する批判となる。「日本国憲法」無効論と憲法論の分は、「日本国憲法」改正論及び安倍改憲案に対する批判が中心である。さらに時事問題の分も、ヘイト法関係や親の懲戒権廃止関係の記事は、育鵬社系及び安倍系の議論に対する批判を多く含むものである。別に安倍批判をしようと意識したわけではないが、私の言論はそのほとんどが育鵬社系及び安倍系の主張と対立するものだったのである。実際に各種言論機関に発表した論稿は、ほとんどの場合、ブログ記事を材料にして書いているから、発表論稿に関しても同じことが言えよう。

 と考えてくれば、私の言論の場がどんどん無くなってきたのは当然だったように考えられる。言論の場の減少のことを、運がないとか、名前がないせいかと考えてみたりしたが、これだけ安倍氏系の主張を批判してくれば、当然のことだったのであろう。というように考えるに至った。このようなことが明確化したのは、ブログ移転に伴うカテゴリー分類という労力の効用である。
 








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