つくるとすれば住民投票条例は、議員立法で作るべきではないか――武蔵野市住民投票条例案否決を受けて、その2《12月25日追記》

住民投票条例とは議会中心に作られるべきものではないか

 武蔵野市住民投票条例案否決という結果を見ても、すっきりはしない。21日の本会議で否決される前、18日か19日頃から、ある疑問が生まれてきた。そもそも市長が住民投票条例案を提案するのはおかしいのではないか、ということだ。

 立法権は、国でも地方でも議会にある。それゆえ、本来的に言えば、法律や条例は議会が中心になってつくるべきものとなる。国の場合は議院内閣制をとっているから、閣法が中心となってもよいとも言えるが、地方の場合は権力分立制に基づく二元代表制を採用している。それゆえ、原理的に、議員立法に基き条例が作られるべきではないかといえる。しかし、実際上は自治体の首長が条例原案を作成するケースがほとんどである。その慣例に従って、武蔵野市でも、市長サイドが住民投票条例案を作成して提案したのであろう。

 だが、よく考えてみれば、住民投票条例とは、議会の立法権を制限するものである。正確には、議会の立法権の一部、それも決定的な部分を「住民」に「奉還」する条例である。こういう条例は、議会が提案し、議会の十分な審議を経て作られるべきものであろう。

 さらにいえば、住民投票条例の根拠となっている自治基本条例も、「自治体の憲法」という触れ込みなわけだから、議員立法で、議会中心に作られるべきものだと言えよう。この自治基本条例以上に、住民投票条例は、議員立法でなければならないと言えよう。何しろ、もっぱら、議会の立法権を制限する内容のものであるからだ。

 議会こそが、市町村の配置分合以外の常設型住民投票制度について作るべきか否か、作るとすればどのような仕組みにすべきかということを一から議論すべきではないかと思った。
 
住民投票条例作成過程では、議員の議論が封じられた

 私が議員立法であるべきではないかと考え出したのは、前に紹介した金子宗徳氏と深田貴美子元議員の動画を見たときである。この動画の中で、深田氏は、次のように述べていた。

➀3月に住民投票条例の骨子案、9月に素案が出されたが、いずれに対しても、会派ごとにレポートを出せと市長サイドは言った。更に、これをパブリック・コメント扱いすると言った
・こんなことを言われことはない。初めてである。
・だが、自民市民クラブは、一生懸命、意見をまとめて出した。

他の会派、例えば共産党さんが何を書いたのか、自民市民クラブは知らない。議会が分断されてしまった・
・他の会派がレポートで何を書いたか知らないものだから、互いに争点を作れない
普通は全員協議会を作っていろいろ話し合うのだが、それを一度も出来なかった

https://www.youtube.com/watch?v=A7bY40nZ6Q4
この動画の1時間19分50秒以降のところで、上記のことを深田氏は話している。


  ここに書き出したすべてのことに、私は驚いた。この動画で深田氏は、《市長サイドは、住民投票は伝家の宝刀だ、議会の上に来るものだというようなことを述べていた。これは二元代表制を否定することにつながる》と話していた。あからさまに、議会に対して、議会を有名無実化するということを市長サイドが述べていたと言うことに驚いた。

  だが、そのことよりも、議員の意見をアンケート調査し、それをパブリック・コメント扱いするということ、しかも全会派に議員の意見を共有させなかったことに驚いた。最も議会が中心となってつくるべき条例案を、議会に議論させないで通そうとしていたことに痛く驚いた。実際、13日の総務委員会でも、20日の本会議でも議論は行われているが、その議論は市長側対議員の議論であり、議員同士の議論では全くなかった。

 常設型住民投票制度が作られれば、議会の地位が根本的に変化してしまうのに、議員同士の議論なしに、条例案を通過させようとしていたのである。とんでもない専制政治であり、議会を有名無実化する試みである。 

条例案の狙いは市長独裁の政治 

  このように、今回の条例案の進め方を見ると、市長の専制ぶりが目につく。この専制主義は、住民投票条例案自体にも現れている。最初、私は、《住民投票の結果》というものが、市長よりも議会よりも上位に位置付けられる結果、立法権も行政権も市民運動家に奪われていくのではないかという危険性を考えた。

 だが、12月13日の総務委員会での自民市民クラブの議員の質問を聴いてからようやく分ったのだが、住民投票の署名集めの段階で、気に入らない署名集めは市長が恣意的に却下できる。そして、却下できようができまいが、市長は、議会が否決した条例案であっても、住民投票を実施して多数を得れば、その《住民投票の結果》を錦の御旗にして、もう一度提案して可決に持ち込むこともできるわけである。議会を脅して、立法権を有名無実化することができるわけである。

 市長対議会という力関係に於て、圧倒的に市長側が有利になる制度である。市長も「住民」に一定程度行政権を奪われるのかと思っていたが、基本的に議会の立法権だけが大きく弱体化する制度案なのだということがようやく分った。

 是非、上記動画をご覧いただきたい。随分、勉強になったので、お勧めするものである。

最後に記しておきたいこと

 なお、最後に武蔵野市住民投票条例問題を考え続けて、強く思ったことを記しておきたい。

➀市町村の配置分合に関する常設的な住民投票制度は、法律の根拠もあり必要だ。その他の常設型住民投票制度の必要性はない。

②議会がどうにも機能不全の時は、議会の議決を経て住民投票を実施する個別型住民投票の制度はあってもよい。これを制度化するときは、機能不全云々と議会の議決云々は、条文の中に明記すべきこと。他に、住民投票の対象範囲の限定が必要となるが、これについてはよくわからない。もっとも、条文化すれば常設型の一種となるのか。

➂住民投票制度を広める危険性の理由としては、間接民主主義の方が優れていること、直接民主主義が全体主義を導くこと、以上の二点以外に次のことがある。
1、 住民投票に頼ることは、政治家の政治に対する責任感を希薄化させること、何度も書いてきたが議会を有名無実化すること
2、 住民投票は社会や家族を分断し、議会を分断すること
・ついでに言えば、4200万円もの大きな予算を投じる利益はないことも、一つの理由となる。

⓸改革病、人工主義の病から脱すべきこと
・ものごとは具体的問題がある時に初めて制度をいじるスタイルをとるべきである。
・解決すべき具体的問題があるとしても、立案した改革案の利点・欠点と現状維持案の利点・欠点を比較したうえでよい方を採用すること
・両案を比べて決定的に改革案の長所が見えないときは、むしろ現状維持案でいくべきこと。
・多くの場合、改革の長所が決定的に分からないにもかかわらず改革を行ってはドツボにはまってしまう。それは、平成に入って以降、日本が嫌というほど経験してきたことである。


《12月25日追記、松下市長独裁が問題の本質》……これまで、今回の問題を、間接民主主義・代議制民主主義(ひいては二元代表制)の破壊、外国人に対する選挙権を超える権利の付与、地方自治の本旨の破壊、という三点で捉えてきた。その観点から問題を語って来た。もっぱら、外国人問題ばかりがクローズアップされてきたが、この狭い捉え方に私はイライラしてきた。それゆえ、意識的にも、この三点から総合的に問題を捉えようとしてきた。

 しかし、この記事を認めるなかで、政治論的・政治学的には、最も大きな問題は、松下市長の独裁主義、専制主義にあることが分かった。市民に対する松下氏の態度は知らないが、ここまで論じてきたところから分かるように、議会に対する態度はひどすぎる。議員の意見をパブリックコメント扱いするなど、言語同断の態度である。今回の住民投票条例案の内容も議会を有名無実化するものだが、その審議過程でも、議員たちを分断し、議員たちに議論させない態度を貫いた。武蔵野市住民投票条例問題の本質とは、市長VS議会の力関係の中にある。市長が《住民投票の結果》を伝家の宝刀として議会を引き回すための道具が住民投票条例である。つまり、松下市長独裁体制の構築が、今回の問題の本質なのだ。

 さらにいえば、市長だけではなく、住民投票条例案賛成派は、住民投票権付与を土台にして外国人選挙権まで実現すれば、外国人が自分たちに投票してくれるだろうから、市会を自分たちで牛耳ることができるという計算が働いているとの予測もある。特に共産党が狙っていることである。つまり、党派的な利益を実現するために国益を犠牲にしようとするわけである。


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