ヨラム・ハゾニー『ナショナリズムの美徳』を読まれたい――グローバリズムよりナショナリズムの方が自由・権利・民主主義を保障する

4、5日前に、ヨラム・ハゾニー『ナショナリズムの美徳』(中野剛志・施光恒訳、2021年、東洋経済新報社)を読んだ。

 一言で言えば、本書は、ローマ帝国から今日のグローバリズムに至る帝国主義の政治思想と比較しつつ、ナショナリズムの政治思想の優位性を説いた本である。すなわち、勢力均衡論に基づき複数の独立国家が並存する世界秩序を推奨するとともに、国家が主権を保持し抑制均衡論に基づき権力分立などの国家体制を維持することが、自由及び権利を保障することになると主張した本である。

 本書を読んで、昨年の米大統領選以来のアメリカの混乱、トランプ主義の思想的背景、コロナ騒動の思想的背景も鮮明に分かった気がした。また、改めて、『新しい公民教科書』が何ゆえにグローバリズムに染まった教科書調査官による厳しい検定を受けることになったのか、よく理解することができた。『新しい公民教科書』を執筆しているとき、検定を受けているときには余り意識していなかったが、教科書調査官にとっては、『新しい公民教科書』の内容はナショナリズム的であり、グローバリズムの立場からは許すことのできないものだったのである。
 以下、目次をまず掲げる。

目次

序章 ナショナリズムへの回帰
第1部 ナショナリズムと西洋の自由          
第1章 世界秩序の2つのビジョン
第2章 ローマ教会と帝国としてのビジョン
第3章 西洋のプロテスタント構造  
第4章 ジョン・ロックとリベラル構造 
第5章 不信を抱かれたナショナリズム
第6章 帝国主義としてのリベラリズム
第7章 リベラリズムに対するナショナリストからの代案 

第2部 国民国家とは何か   
第8章 政治哲学の2つのタイプ
第9章 政治秩序の基礎
第10章 国家はどのように生まれたのか?  
第11章 事業と家族 
第12章 帝国と無政府状態  
第13章 秩序原則としてのネイションの自由     
第14章 国民国家の利点  
第15章 連邦と言う解決策の虚構   
第16章 中立国家と言う虚構  
第17章 ネイションの独立の権利? 
第18章 国民国家からなる秩序の諸原則

第3部 反ナショナリズムと憎悪
第19章 憎悪はナショナリズムへの反論か?
第20章 イスラエルに対する誹謗中傷活動
第21章 イマヌエル・カントと反ナショナリズムのパラダイム
第22章 アウシュヴィッツの2つの教訓   
第23章 第三世界とイスラムの非道な行為が見過ごされているのはなぜか? 
第24章 イギリス、アメリカ、その他気の毒なネイション
第25章 帝国主義者はなぜ憎むのか   
終章 ナショナリズムの美徳 


 以上のように3部構成となっているが、第1部では世界秩序と言う観点から、複数の独立国家が対等に並存する秩序と普遍帝国が世界を支配する秩序を比較し、前者が後者より優れていると展開している。第2部では国民国家に焦点を当てて国内秩序の観点から論じていき、最後に国民国家を中心にした国際秩序について説明している。その際、国民国家と帝国を比較し、やはり前者が後者より優れていると展開している。第3部では、特に今日的な、あるいは論争的なテーマを取り出して論じている。

 以下、歴史的に論じていることもあり、第1部を詳しく紹介していきたい。そのことによって本書が展開する思想的特徴は、おおよそ明確になると思われる。第2部については、特に気になったところだけ紹介していこう。第3部の紹介は省略することとする。特に感じたことがあれば、適宜記していくこととする。

第1部 ナショナリズムと西洋の自由   

ナショナリズム的秩序と帝国主義的秩序

もう一度いうが、第1部「ナショナリズムと西洋の自由」では、世界秩序のレベルから、複数の独立国家が並存するナショナリズム的秩序と普遍帝国が世界を支配する帝国主義的秩序とを比較し、前者のほうが優れていると展開している。

 前者は1648年のウエストファリア条約によって作られたものである。今日では「インドやイスラエル、日本、ノルウェー、韓国、スイス」(30頁)、イギリスなどによって代表される。後者は、ローマ帝国、神聖ローマ帝国、ソビエト帝国らによって形成され、今日ではEUの指導者や米ソ冷戦終了後のアメリカが目指してきたものである。

第1部では、ナショナリズム的秩序と帝国主義的秩序との攻防を歴史的にたどっている。第1章、第3章、第5章、第7章の奇数章ではナショナリズム的秩序に、第2章、第4章、第6章の偶数章では帝国主義的秩序に焦点を当てて論じている。

「聖書とネイション」

 最も重要な章は第1章である。第1章で興味深いのは、「西洋文明はその歴史の大半において、世界帝国という夢に支配されてきたが、文明の中心にある聖書の存在によって、幾度となく自決権のある独立したネイションという思想が復活することになった」(31頁)との記述である。聖書の思想こそが、ネイションの独立、ナショナリズム的世界秩序の根源にあると言うのだ。

 では、聖書から読み取れる政治秩序とは何か。本書は、「聖書とネイション」という小見出しの下、おおよそ以下のようなことを述べている。エジプト、バビロン、アッシリア、ペルシャと帝国に次から次と支配された。エジプトなどの帝国勢力は、人類全体に普遍的な政治秩序を押し付けて人類を統一しようとして平和をもたらした。この平和には「明らかな経済的利点があったにもかかわらず、まさにこれに対する根深い抵抗から聖書は生まれた」(32頁)。イスラエルにとって、例えばエジプトは「奴隷の家」であったからである。

古代中東には都市国家が多かったが、帝国の軍隊と普遍帝国のイデオロギーには抵抗できなかった。「帝国以外で存続可能な形態が初めて示されたのは、聖書だった。限定された境界内でほかの独立したネイションと共存するネイションの独立性に基づく政治秩序が、聖書のなかに見つかる」(32頁)と言う。

ネイションとは、「共通の言語をもち、防衛やその他大規模な事業のために一丸となって活動した過去を共有する、多数の部族のこと」(33頁)である。とはいえ、外国生まれの者がイスラエルの民になれないわけではない。イスラエルの神と法を受け入れる意思があり、イスラエルの歴史を理解していれば民となれる。

ネイションの構成員は、互いを「同胞」とみなすべきだし、この「同胞」の中から王は選ばれる。預言者も聖職者も、同胞から出ることになる。全てがネイション内の「同胞」から出ると捉えていることが注目されよう。

聖書は国境を重視する

更に注目されるのは、ハゾニー氏によれば、聖書が国境と言うものを重視している点だ。神の命令によれば、イスラエル近隣のモアブ、エドム、アモンなどの王国はそれぞれが独立した存在としてふさわしいのだから、国境を尊重すべきであり、モアブなどを侵略してならないことになる。それゆえ、ハゾニー氏は次のように述べている。

聖書を読めば、このイスラエルの預言者の政治的念願は、帝国ではなく、ほかの自由なネイションに囲まれて、正義を貫き平和に暮らす自由で統一されたネイションであることがわかる。 33~34頁

聖書は権力相互の抑制均衡を説く

 上記記述に続けて、「王は民から生まれる」との小見出しの下、国内秩序のあり方についての聖書の考え方が記される。「エジプトやバビロニアの王と異なり、古代イスラエル王は、モーセの律法の下では立法の権限が与えられていない」(34頁)し、祭祀職を任命する権限もない。また、「その民への課税と奴隷化に関する王の権利を制限している」(同)という。つまり、帝国のような専制政治を生まないようにする目的から、権力分立的な政治秩序が示されている。

 本書によれば、聖書は、複数の独立国家の並存する世界秩序を示し、権力分立的な国内秩序を示しているのである。

キリスト教帝国VS新興独立国家

 聖書でせっかく示されたナショナリズム的秩序であるが、「西洋人の歴史の大半を通して、ネイション独立の理想はもっぱら宙に浮いたままだった」(36頁)。西洋ではローマ帝国、ローマカトリック教会の時代が来る。ローマカトリック教会はドイツの神聖ローマ皇帝と同盟を組み、「彼ら自身の普遍帝国が支配する世界に、平和と繁栄をもたらす責任を担っていた」(37頁)。その点で、ローマカトリック教会の政治思想は、イスラムのカリフ、中国皇帝の政治思想と共通するものだった。

しかし、キリスト教の政治思想は、イスラムや中国とは大きな違いがあった。「キリスト教には、独立したネイションの世界の正義と言うビジョンを掲げる、ヘブライ語聖書があった」(37頁)。この旧約聖書の影響を受けたのが、フランスのカトリックであり、イギリス、ポーランド、チェコにおける独特の国教制度であった。そして、16世紀にプロテスタント主義、特に旧約聖書志向のツヴィングリ、カルヴァンのような思想家の影響の下で、ネイション独立の思想と現実が強くなっていく。このようにキリスト教帝国から独立していくときの「プロテスタントの人々の自己イメージは、エジプトやバビロニアの普遍帝国の独裁者からネイションと信仰の自由を手に入れようとする、聖書に描かれたイスラエルの人々を模範にしていることか多かった」(38頁)という。  
        
 本書によれば、三十年戦争は、プロテスタント対カトリックの宗教戦争ではない。フランス、ネーデルランド、スウェーデンなどの新興諸国対普遍帝国の理想を奉ずるドイツやスペイン軍との戦争であった。この戦争を終わらせた1648年のウェストファリア条約によって、独立国民国家体制が形成される。
 
西洋のプロテスタント構造 

 以上のことが第2章で展開されるが、第3章では、独立国民国家体制の政治秩序が示される。この秩序を築いた国にはプロテスタント国家が多かったからか、本書ではプロテスタント構造という名称を使っている。プロテスタント構造の下で、ヨーロッパの政治生活には、次の2つの原則が存在した。

1.合法的政府に必要な最低限の道徳規範
2.ネイションの自決権


第1の原則は、国家の支配者が「民衆の命、家族、財産の保護、裁判の公正性、安息日の維持、唯一神の公認に心血を注がなければならない」(39頁)ということである。ルターやカルヴァンはこれを自然法とみなしていたし、これらを守るのは最低限の道徳と見なされた。

 第2の原則は、「政治的独立を確保できるほど団結し力のあるネイションは、後世に自決権と呼ばれるものを保有するとみなされる」(40頁)ということである。したがって、ヨーロッパでは、1の原則を守るという制限内で各国独自の政治秩序がつくられ、君主制も共和制もあるという状態になった。この自決権の原則こそ、世界を自由にしたのである。

プロテスタント構造を脅かすリベラル構造

 しかし、世界に自由をもたらしたプロテスタントの政治秩序は、リベラル構造の圧力から危機に陥っていく。第4章では、このリベラル構造について検討している。

 リベラル構造とはどういうものか。「西洋のリベラル構造は、正当な政治秩序の根底にはたった一つの原則しかないとしている」(46頁)。それは、個人の自由というものである。

 この概念の源は、ジョン・ロックの『統治二論』(1690年)である。ロック自身は、プロテスタント構造を強化する意図で『統治二論』を書いた。

 しかし、ロックは、「相互の忠誠心のため、人々は家族、部族、ネイションへと結び」(47頁)つくという人間の本質的側面を無視した。代わりに、ロックは同意と言うものを強調した。ロックの「同意」とは「個人がそれに同意しただけで人間集団の一員になり、個人が受け入れた場合に限り、そのような集団に対して義務を負うという意味」(同)である。ロックは、この個人の同意によって、家族や国家などが形成され、家族や国民・国家に対する義務が生まれると考えるわけである。

 このロックの説明を読んだ人は非常に困惑した。バークは、史上最悪の本だと言い放ったという。この根本的欠陥が存在するにもかかわらず、西洋の知識人はロックを喜んで読み続けてきた。

社会契約説と言う虚構にしがみついてきたインテリ層と政治家

 それゆえ、第2部の第10章では、「おとぎ話を植え付ける」との小見出しの下、次のように記されている。

 政治や法律、哲学などの講師が、国家がどのようにして誕生するのか生徒に教えるとき、こう伝える。「完全に自由で平等な状態で生活するとき、個人がほかの無数の人々とともに政府を形成し、その命令に服従することに同意するのだ」と。これが真実だと信じている講師はいない。それなのに、あたかもそうであるかのように話すのはなぜだろうか。

……国家がどのように誕生したかという話は、まず高校で、次に大学で、そしてロースクールや大学院で、教育のあらゆる段階で、何度も何度も年若い男女に印象づけられる。やがて彼らは国会議員や、法律の専門家、著名な学者になるが、この話は彼らの政治生活の思想に定着し、本当の理解が占めるはずの脳内領域をこのおとぎ話が占めているのである。そのため、内政でも外政でも、多くの重要な取り組みにどれほどのダメージが与えられているのか、わたしたちは毎日のように目の当たりにしている。依然としてこの虚構に頼る政治家が国家を代表して意思決定するなど、現実に行動を起こしているからだ。  98~99頁


 社会契約説とは虚構にすぎない。そのことを百も承知していながら、学者も教師も政治家も社会契約説にもとづき、ものごとを考えるのが今日の状況である。思想も政治も現実離れしておかしくなるのは当然なのである。

ネイション間の境界線を説明できないリベラリズム

 このようにロック理論の第一の欠陥は、家族や国家等の成立、家族や国家等をめぐる諸々の義務の根拠を説明できないことである。それだけではない。第二の欠陥は、ネイション間の境界線がなぜ存在するのか説明できないことである。

 プロテスタント政治理論では、旧約聖書に従い、ネイションの境界は人間の平和と幸福にとって重要だとみなしている。ロック理論では、人間全体が一つの共同体であるとされ、本来、ネイションの境界が全く必要ないことになる。それゆえ、なぜ国境があるのか説明できないことになるのである。

 しかし、ロックを読み続けた結果、独立した国民国家はなくてもよいと主張する者が現れる。ルードヴィヒ・フオン・ミーゼスは「「世界の超国家」を支持し、国民国家はなくてもいいと、公然と提唱した。20世紀のリベラリズムの理論家のなかで最重要人物であるフリードリヒ・ハイエクも、……ネイション間に有意な境界線のない世界連邦」(52頁)を支持した。

 ここまで述べてきたように、二つの重要な欠陥があるにもかかわらず、ロック理論は支持を集めてきた。近年では、政治、経済、法学における議論はロック派のパラダイムで行われる。そして、「このリベラルなパラダイムに参入するという儀式を経て、高学歴の者は、リベラルな構造が世界的に実現するという前提で進められているさまざまなプロジェクトのなかで仕事にありつくことができる」(53頁)。傍線部のプロジェクトとは、ヨーロッパの統合化、制約を受けない自由貿易の拡大、移民の奨励、多国籍企業への移行などのことだ。要するにグローバリズムの推進である。要するに、知識層が順調に世の中で出世していくためには、ロック派の理論を受け容れてグローバリズムを推進していかなければならないのである。  

ヒトラーはナショナリストではなく帝国主義者である

 プロテスタント構造を脅かしてきたのはリベラル構造だけではない。もう一つ大きいのは、ヒトラーの政治思想に対する誤解である。この点については、第5章で説明されている。周知のように、2度の世界大戦は大惨事をヨーロッパにもたらした。マルクス主義者とリベラリストは、大惨事の原因は国民国家の秩序そのものであると攻撃した。彼らは、ヒトラーを初めとしたナショナリストたちが大惨事を引き起こしたのだと主張した。そして、「1960年代頃には、ナチスのユダヤ人絶滅に対する嫌悪感は、教育を受けたエリートたちに対し、あらゆる種類のネイションの個別主義・宗教的個別主義と、ナチズムや人種差別主義を同一視するように仕向けることに成功」(56頁)した。

 しかし、ヒトラーは、ナショナリズムの提唱者ではない。「第一帝国」とされる神聖ローマ帝国に倣った「第三帝国」の創設に着手した。ナチスは、ネイションの独立と自決の原則に終止符を打とうとしており、帝国主義者であったのである。

帝国主義としてのリベラリズム、独善的なリベラル帝国主義 
              
 ともあれ、ナショナリズムは、第二次大戦後、リベラリズムとマルクス主義に攻撃され、衰退してきた。では、リベラリズムとは何か。このことに関しては第6章で展開されている。リベラル主義は、エジプトのファラオ、古代ローマ皇帝、近代初頭までのローマカトリック教会、マルクス主義者などと同じく、帝国主義の一つである。

 リベラル帝国主義に対する反対派が次々に倒されていくと、「独断的な帝国主義がリベラル陣営内の優勢的意見として残ることになった――それには、無謬性の教義や異端審問と禁書目録の嗜好などが含まれ、意図せずして、典型的な中世カトリック帝国の最悪の特徴を急激に帯びつつある」(65頁)。

 西洋では、「イスラムや同性愛、移民、その他多くのテーマについての教授陣の意見に対する公式及び非公式の検閲が、大学では一般的になっている」(65頁)。もちろん、これらのテーマに対する批判的な意見を明確にすれば、大学から追放されるのが日常になって久しいようだ。更に多くの公共の場が、大学と同じになってきている。「西洋の民主主義国家は、急速に一つの大きな大学キャンパスになりつつあるのだ」(66頁)。数年遅れで、特にヘイト法が成立した2016年以降、日本も同じような社会となりつつある。いや、なってしまった。

 では、なぜ、このように不寛容な社会がもたらされたのか。「ネイションの独立と自決という基本原則をもつ西洋のプロテスタント構造から離脱」(同)した結果である。ネイションの独立と自決という基本原則は、立憲主義的・宗教的立場の多様性を義務付けているから、全く異なる立場に対する寛容さをも要求していることに注目すべきである。

不寛容なリベラリズム
            
ところが、西洋のエリートの観点は、リベラル構造に合わせて積極的に同質化されている。その結果、異なる立場に対する寛容さの必要性さえも認識出来なくなっている。寛容性は、ナショナリズムの衰退につれ、過去の時代の遺物となりつつある。EU離脱決定の際にイギリス国民や指導者に浴びせられた非難や中傷を思い出されたい。リベラル構造の観点からすれば、欧州統一は唯一の合理的な意見となる。これに反対することは、「ファシズム的発想の証拠とは言わないまでも、下品で無知なものとみなされる」(68頁)のである。

リベラリズムに対するナショナリストからの代案  
     
 こうして世界はリベラル帝国主義に制覇されてしまうかと思われたが、英国におけEU離脱の国民投票、アメリカにおけるトランプ大統領に代表されるナショナリストの復活を契機として、グローバリズム又はリベラル帝国主義に対する反対派が生まれている。この反対派について第7章では分析している。

 反対派を分類してみよう。プロテスタント構造には2つの基本原則があった。それゆえ、反対派は、2つとも復活させんとするか、いずれか一つだけ復活させんとする。つまり、3派の反対派が生まれることとなる。

1・ネオ・カトリック……自殺ほう助と中絶に反対するが、リベラル帝国主義と同じく、国家を超えて「強制力を備えた国際法レジームの発展を支持する傾向がある」(72頁)。

2・ネオ・ナショナリスト(国家統制主義者)……フランス革命的なナショナリズムの先例に倣うもの。当然に、リベラル帝国主義と同じく、独裁主義を強化しかねない欠点がある。

3・保守主義的立場……ネイションの独立という原則とともに、最低限の道徳規範という原則も守る。すなわち、英米の保守的伝統を汲んで、「制限された行政権、個人の自由、聖書に基づく公共の宗教、……歴史的経験主義の原則を支持する」(74頁)立場である。

 当然、ハゾニー氏の支持する立場は、プロテスタント構造の2原則を共に守る第3の保守主義的立場である。
                 
第2部 国民国家とは何か  

 前述のように、第2部では国内秩序の観点から国民国家の方が帝国よりも優れていると論じている。第2部については、特に気になった第8章、第9章と第14章だけ見ていきたい。

政治秩序の哲学を研究してから政府の哲学を

 第8章からみると、ハゾニー氏は、政治哲学を政府の哲学と政治秩序の哲学の二種に分類する。氏によれば、ギリシアの政治哲学も、近代のリベラルな政治思想も政府の哲学にのみ傾注し、「政府の最善の体制ないし最善の形態に関心を抱」(78頁)き「政府の構造はどうあるべきかに注意を払」(同)ってきた。それゆえ、君主制か民主制か、権力集中か権力分立か、国家は成文憲法に制約されるのか、個人の基本的権利と自由を保障すべきか、といった問題にばかり関心を払ってきた。

 しかし、より重要なのは、政治秩序の哲学の方だ。政治秩序の哲学は、次のような問題に答える学問だ。

 国家としての秩序を保てるほど共同体が十分に結束することを可能にするものは何か? 独立した個人が政府の下で生活することに同意した場合に国家が形成されるのか、それとも以前から存在していた結束した共同体が統一されることによって形成されるのか? 国家は本当に人間の生活を律する最良の制度なのか、それとも、氏族や封建的秩序のような、別の政治形態のほうが望ましいのだろうか? そして、国家が最善の秩序ならば、単一の普遍的な国家の手に委ねられるべきなのか、それとも競合する多数の国家間で分散されるべきなのか?       79頁

 このように、政治秩序の哲学とは、国家起源論を中心にした国家論及び国際秩序論とでもいうべきものの学である。当然、こちらの方が、政府の哲学よりも本質的に重要なはずだ。 
             
 政治秩序の哲学を研究してから政府の哲学を研究すべきである。本書は、政治秩序の哲学を探究し、国民国家の秩序こそが国内秩序として優れており、複数の国民国家が並存する世界秩序こそが優れていることを論じたものである。

政府の哲学だけを研究する弊害

 政治秩序の哲学をおろそかにして政府の哲学だけ研究すると、悪影響を及ぼす恐れがある。その悪影響とは次のようなものだ。

 この哲学(政府の哲学-引用者)は、結束し独立した国家の存在を前提とすることを起点とするので、……すべての国は結束と独立を失う瀬戸際に絶えず立たされていることを想起できないので、自分たちの国の統一性と独立はしごく当然のものだとみなすのだ。結果として、国の結束力と独立性を維持するために必要な努力を軽視して、国の結束力を破壊し独立性を希薄化するような政策を嬉々として提唱する傾向がある。    80頁

 ハゾニー氏はイスラエルの例を念頭に置いて記していると思われるが、まるで現代日本の話のようだ。現代日本では、国家論の研究も教育も行われず、ひたすら政府の哲学だけが研究され教育されてきた。だからこそ、「日本列島は日本人だけのものではない」と誇らしげに語り、「国の結束力を破壊し独立性を希薄化するような政策」を次々と遂行する総理大臣を生み出してきたわけである。

 第8章を読むと、現代日本の政治学、憲法学、国際法学などがダメな原因がわかる。政治家がダメな原因も、教育がダメな原因もよくわかる。彼らは、すべて政治秩序の哲学、特に国家論を研究しないし、その教育を受けていないからダメなのだ。


相互の忠誠の絆から家族や国家が成る

 次に「第9章 政治秩序の基礎」である。ここで注目されるのは、人が集団を形成していくときの動機、特に家族や国家等の共同体を形成していくときの動機として、忠誠心を挙げていることである。では、忠誠とは何か。

個人が自己の範囲内に特定の他者を含めるとき、この愛着を忠誠と呼ぶ。2人の人間が、それぞれ拡張された自己の下で相手を保護するとき、築かれた絆は相互の忠誠の一種であり、これにより、2人は自分たちを1つの実体とみなすことができる。……目の前の苦難を乗り越えると、彼らは安堵感と喜びを抱き、互いの幸せを自分の幸せと認識して、一緒になって喜びを味わう。逆境や勝利の中でほかの人を自己の一部として認識するこのような経験は、内側と外側の間に明確な区別を確立する。  86頁

家族→氏族→部族→ネイション

 ここに登場する相互の忠誠の絆から、「持続的でレジリエント〔訳注:逆境に遭遇してもうまく乗り越えられる〕な組織」(87頁)は構築される。家族は最もレジリエントな組織であり、家族が集合して氏族が、氏族が集合して部族が、部族が集合してネイションが形成される。忠誠心の絆がこのように拡大されていくことによって、国家が生まれるわけである。 

 氏族や部族といっても、今日の我々にはピンとこないかもしれない。しかし、本書によれば、現代でも氏族に当たるもの、部族に当たるものが存在する。「地域の政治支部、教会やシナゴーグ、学校、その他共同体の組織は、今なお、昔の氏族を彷彿とさせる」(92頁)し、「影響力の大きい宗教結社、民族連盟、業界団体、職能団体が、ネイションの生活において部族のような役割を果たしているが、それはやはり、強い相互忠誠心をもつ部族で」(同)ある。

 繰り返すが、この家族→氏族→部族→ネイションという統合過程で最も重要なのは、相互の忠誠心である。興味深いのは、相互の忠誠心は「現在共有する逆境によって復活し、強化される」(90頁)としていることである。この認識から、本書は次のように記している。

 全人類が相互の忠誠心を抱くというような傾向を、わたしたちは見たことがない――それは、全人類が共有する逆境に立ち向かう状況でしか、形成されないものだろう。 90頁

 「全人類が共有する逆境」という部分が気になったので引用しておく。

国民国家の利点――帝国との比較において
           
 最後に、「第14章 国民国家の利点」である。第14章では、帝国主義国家と比較しながら、国民国家の利点を整理している。

1. 暴力は周辺に追いやられる 
 国家成立以前の状態では氏族間、部族間の戦争があったが、それがなくなる。戦争が起きるとすれば、国境周辺に限定されることになる。

2.帝国による征服に価値を見いださない
 国民国家では、国境線を重視し、国境線を越えて侵略しようとする動機が出てこない。これに対して、帝国は、「普遍的」カテゴリーを世界全体に広げるべきものと考えるから、国境線を越えて侵略していくことにためらいがない。
 要するに、1と2を合わせて言えば、国民国家の方が帝国よりも平和的であり、侵略的ではないのである。

3.集合的自由 
 「人類は、相互の忠誠の絆によって結ばれた家族、氏族、部族またはネイションの健康と繁栄を常に望み、積極的に求める」(146頁)。このような集合的欲求・自由は、独立した国民国家秩序の下で最大限保障される。
 対して、帝国主義国家では、「ネイションの兵士たちは自分たちの境界線を守るのではなく、故郷から遠く離れて外国人の領土の防衛に従事することになる」(149頁)から、相互の忠誠心など成立しない。それゆえ、帝国主義国家は、ネイションの集合的自由を保障できない。「帝国主義国家は自由国家になれない。常に専制国家である」(150頁)ということになる。
 ネイションの集合的自由は、複数の国民国家からなる秩序において、最も保障される。国際情勢における勢力均衡の目的は、平和や安定の維持というよりも、ネイションの独立と自決権を守ることである。

4.競争的な政治秩序……独立した国民国家同士が競い合う。
  最善の政治秩序とはどういうものか。独立した国家同士が競争し合うナショナリズム的政治と帝国主義的政治とでは、いずれが優れているか。本書によれば、第一に、いろいろなネイションが、歴史と言う長い時間をかけて実験して初めて分かることである。すなわち、合理主義的な認識論よりも経験主義的認識論の方が正しいのである。第二に、小さな独立国家体制の時代の方が、科学研究や宗教、芸術で実りある成果を生み出してきた。それゆえ、独立した国家同士が競争し合うナショナリズム的政治の方が、帝国主義政治よりも優れていると言える。

5.個人の自由        
「既知の帝国主義国家は、いずれも何らかの独裁体制を築いてきた。個人の権利と自由の伝統は、国民国家においてのみ発生し展開したものである。一部の理論家は、国民国家こそが、自由な制度を安定させることができる唯一の環境だと指摘している」(162頁)。個人の権利と自由の伝統は、モーセの律法に根拠をもち、英国とアメリカという国民国家において発展してきたからである。
対して帝国主義国家ではどうか。帝国主義国家では、各ナショナリティが互いに忠誠を誓いあう可能性はない。帝国が「勝利や失敗を経験したとき、その支配下のネイションは、それを自分たちに起きたこととしては経験しない」(165頁)。
このような状況で個人の自由がネイションに与えられならば、彼らは言論の自由を利用して、帝国主義国家の解体を強く求めるだろう。それゆえ、帝国主義国家では個人の自由を広く認めることはできないのである。

 本書は以上のように国民国家の利点を帝国との比較で挙げていくわけであるが、4の箇所に注目したい。本書は、ナショナリズム的政治か帝国主義的政治かという選択の背景には、認識論の違いがあると言う。2回ほど前の記事で引用した部分だが、もう一度引用しておこう。

 帝国主義政治かナショナリズム的政治かの選択は、2つの認識論を選択することに相当する。少なくとも西洋の歴史においては、帝国主義は合理主義的認識論と関連する傾向がある。人間の理性を無限に信頼するこのような理論は、偉大な普遍的真理はすでに手中にあり、その知識は今、人類にもたらされる必要があるだけだと主張する、大胆なものだ。一方でナショナリズムは、人間の理性の産物にたいしてほどほどの懐疑心を抱き、政治の世界で人間の理性への過信が災いしたことを念頭に置いているので、経験主義的な立場を根拠にする傾向がある。懐疑的であるがゆえに、懸命にも、多くの試みによってそれぞれが異なる真実に到達することを許容する。こうして実験は成功するものもあれば、失敗するものもある。成功した実験はそれぞれ異なる方法で成功するので、各ネイション独自の経験が、それまで理解できなかったさまざまなことを教えてくれる。言い換えれば、ナショナリズム的政治は、ネイション間に大きな議論を招き、実験と学習の世界をもたらすと言えるかもしれない。一方、帝国主義政治は、この議論があまりにも危険あるいは厄介だとして、議論は終わりだと言い放つ。 156頁

 帝国主義政治は合理主義的認識論と関連する。合理主義的認識論は、人間の理性を過信しがちな傲慢な考え方である。言ってみれば、一人の天才に人々をひれ伏させる傾向があり、その点からも帝国主義政治は専制政治の傾向を有しているのである。

 対して、ナショナリズム的政治は、経験主義的認識論の立場の傾向がある。経験主義的認識論の立場は、人間の理性など知れたものだと考える。ナポレオンほどの天才でも大したことは分かってはいないと捉え、「政治の世界で人間の理性への過信が災いしたこと」に大きな注意を払っている。そして、理性に対して懐疑的であるがゆえに、様々な多くの試みを通じて、成功したり失敗したりの経験をふまえて、各ネイションが異なる真実に達していくことを許容する。異なる真実に達したネイションの間では大きな議論が巻き起こり、その議論の中で学習が進んでいく。結局、ナショナリズム的政治の方が寛容の精神、自由の精神を育むのである。

トランプの行動の意味が分かった

 以上本書を紹介してきたが、本書を読んで、トランプの行動の思想的意味について理解することができた。なぜ、トランプ大統領は国境にこだわり、壁を建設していったのか。不法移民の排除という現実政策の意味よりも、聖書に書かれている国境の意義にこだわったからなのかもしれない。また、強面だった彼が一度も戦争をしなかったのは、侵略的な帝国主義者ではなく平和的なナショナリスト故のことだったと位置付けられるのかもしれない。

 それ以上に勉強になったのは、ユダヤ人にはグローバリズム帝国主義者とともに、イスラエルに拠点を置くナショナリストが存在するということだ。このことは、前に何かで読んで知っていたが、改めて知ることができた。トランプがグローバリズムと、国際金融資本家と戦いながらもイスラエルを強固に支援していたのがもう一つ解せなかった。だが、ナショナリズムを奉ずるトランプが、イスラエルのナショナリストを応援するのは思想的に極めて当然のことだと言えるのであろう。

改めて国家論の研究と教育を

 また、本書を読んで、改めて日本の教育や学問に関して思うことがあった。ハゾニー氏は、政府の哲学より政治秩序の哲学を重視すべきであり、政治秩序の哲学の研究をすべきだとする。日本でも同じことが言える。国家論の研究が決定的に足りないし、公民教育において国家論の教育が決定的に足りないからである。

 更に、本書では、家族→氏族→部族→ネイションと言う統合過程について述べている。国家と個人との中間団体の重要さを強調している。しかし、日本の公民教育では、昔から国家論の教育は存在せず、最近10年間で地域社会どころか家族の教育さえもしなくなっている。改めて、最低限、家族→地域社会→国家の教育が必要だと思った次第である。

 ちなみに、『新しい公民教科書』は、国家論を記すとともに、家族→地域社会→国家の統合過程を記した唯一の公民教科書である。本書を読み、改めて『新しい公民教科書』の意義を確認することとなった。


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この記事へのコメント

弁信
2021年07月02日 22:11
以前コメントを書いてからだいぶ経ちました。ご無沙汰しております。また、いつも有益な論考をありがとうございます。

ところで、2年ほど前でしたが、ツイッター上でのある人とのやり取りのなかで以下のとおり書いたことがあります。

「そこなんです。

日本の現在の惨状には、日本の特殊事情、すなわち押し付け日本国憲法やいわゆるWGIPが寄与していることは間違いないと思います。

しかし、敗戦国でもない米国、英国、仏国も日本と同等、いやそれ以上にひどい状況です。

特殊要因だけでなく、普遍的要因があるように思われます。」

このときは、日本だけでなく欧米の惨状をももたらしている「普遍的要因」が何なのか、よくわかりませんでした。が、昨年の小山先生の『西欧の自死』についての書評と今回の書評を読んで、その要因が少しずつわかってきたように思います。

『西欧の自死』は購入したのですが、恥ずかしながらまだ読んでいません。本書と合わせて、出来るだけ早い時期に読み、西欧の「普遍的要因」について理解を深められたらと思います。また、その「普遍的要因」が日本の「特殊要因」とどのように関係しているのかということも、自分なりに考えてみたいと思います。

繰り返しになりますが、ありがとうございます。
小山常実
2021年07月03日 10:07
弁信様
コメントありがとうございます。
私も、「西洋の自死」「ナショナリズムの美徳」「世界の歴史をカネで動かす男たち」の三冊を読み、また昨年からの大統領選とコロナ騒動を通じて、ようやく見えてきた感じがしています。やっと、10年前に公民教科書から家族が消えた件、慰安婦問題における日韓合意、所謂保守派を含む「つくる会」への異常な弾圧、ヘイト法・条例、9条②項温存の偽改憲案、LGBTや女性差別問題などをめぐる言論弾圧、等々の背景が見えてきたと感じています。
 ハゾニー氏の本ですが、紹介しなかったところですが、第23章「第三世界とイスラムの非道な行為が見過ごされているのはなぜか?」というところが面白かったです。ここを読むと、所謂反人種差別主義者たちが、極めて人種差別意識が強いことが分かります。彼らは西欧・東欧と日本に対しては厳しい基準で叩き、中国やイスラム世界に対しては緩い基準で評価しますが、それは中国やイスラムを遅れた段階にあると認識しているからだと書かれています。
 以上のようなことを思いました。
弁信
2021年07月03日 17:59
ご返信、誠にありがとうございます。

『ナショナリズムの美徳』は、現在の世界の流れには政治思想史的な要因もあるという視点が私には新鮮でした。ただ、やはり背後で蠢く人々もいなくては、これほど性急で強圧的な動きにはならないように思われます。そういう意味で『世界の歴史をカネで動かす男たち』も是非読んでみたい本です。

小山先生の次の論考を楽しみにしております。

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