育鵬社の声明批判、その2……「南京事件」をめぐって中国に屈服した育鵬社

  今回は、6月13日育鵬社声明のうち、「南京事件」の記述に関する部分について批判しておこう。育鵬社教科書事業部は、「南京事件」の記述について以下のように述べている。


【南京事件の記述について】
 また、1937(昭和12)年の南京事件の記述についても、扶桑社版教科書の編集方針を踏襲しており、育鵬社版で改変したものではありません。


  これも又、大嘘である。扶桑社版の編集方針は、一貫して、少なくとも「南京事件」の存在を正面から認めない点で一貫していた。その方針は、平成24~27年度版の自由社にも受け継がれている。しかし、育鵬社は、事件は確かにあったという立場から記していたのである。その点を、『新しい歴史教科書』の初版以来の歴史を振り返る中で確認しておこう。

  一、扶桑社、自由社、育鵬社の「南京事件」記述方針の変遷 

  編集方針は、検定合格本や供給本に現れるものではない。検定申請本にこそ現れるものである。主として、検定申請本の記述に注目して、初版以来の歴史を追いかけておこう。

Ⅰ、初版と改訂版の申請本……東京裁判と関連付けて「南京事件」の存否に疑義を呈していた

(1)『新しい歴史教科書』初版(平成12年度検定)  

検定申請本  
 単元74「極東国際軍事裁判」下、「南京事件」の小見出し下、「この東京裁判法廷は、日本軍が1937(昭和12)年の南京攻略戦において、中国民衆20万人以上を殺害したと認定した。
   しかし当時の資料によると、そのときの南京の人口は20万人で、しかも日本軍の攻略の1か月後には、25万人に増えている。
   そのほかにもこの事件の疑問点は多く、今も論争が続いている。戦争中だから、なにがしかの殺害があったとしても、ホロコーストのような種類のものではない」。

 検定合格本 
  単元73「極東国際軍事裁判」下、「平和に対する罪」の小見出し下、
「この東京裁判では、日本軍が1937(昭和12)年、日中戦争で南京を占領したとき、多数の中国人民衆を殺害したと認定した(南京事件)。なお、この事件の実態については資料の上で疑問点も出され、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている」。
  更に、単元66「日中戦争」下、「盧溝橋における日中の衝突」の小見出し下、
「12月、南京を占領した(このとき、日本軍によって民衆にも多数の死傷者が出た。南京事件)。」
                      西尾幹二編『新しい歴史教科書「つくる会」の主張』(徳間書店、2001年)より

 小山のコメント……申請本では、「事件」否定の立場は正面から出されていないが、いかがわしい東京裁判で認定された「事件」とすることによって、また南京の人口増加の点を記すことによって、「事件」そのものの存在に対する疑問が出てくるような仕掛けになっている。また、大虐殺説は明確に否定されている。
   しかし、検定過程を経て、検定合格本では、大虐殺説は否定されているが、「事件」の存在そのものは肯定させられている。


(2)平成18~23年度扶桑社歴史教科書

検定申請本
単元71「日中戦争」下、側注②で、
のちの東京裁判では、このとき多数の中国人民衆を殺害したと認定された(南京事件)。なお、この事件の実態については資料の上で疑問点も出され、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている。」

 検定合格本
単元71「日中戦争」下、側注②で、
「このとき、日本軍によって、中国の軍民に多数の死傷者が出た(南京事件)。なお、この事件の犠牲者数などの実態については資料の上で疑問点も出され、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている。」(199頁)
  
  小山のコメント……改訂版の申請本では、初版の申請本よりも姿勢が若干後退している。だが、やはり、東京裁判で認定された「事件」として扱うことによって、「事件」の存在そのものに疑義が生まれるような仕掛けになっている。また、「事件の実態については……さまざまな見解があり」とすることによっても、多少とも「事件」否定派の存在余地を残している。
   しかし、検定合格本では、東京裁判との関連が断ち切られることによって、「事件」の存在を肯定させられている。更に、「事件の実態については」を「事件の犠牲者数などの実態については」に変えさせられることによって、「事件」否定派の存在余地は完全消滅した。


Ⅱ、自由社初版と育鵬社版……最初から「事件」を肯定した

(3)平成22、23年度自由社版

検定申請本・合格本
「このとき、日本軍によって、中国の軍民に多数の死傷者が出た(南京事件)。なお、この事件の犠牲者数などの実態については資料の上で疑問点が出され、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている。」(199頁)

  小山のコメント……「資料の上で疑問点も出され」が「資料の上で疑問点が出され」に変わったこと以外は、平成18~23年度版扶桑社の検定合格本とまったく同じである。当時の「つくる会」-自由社にとっては、扶桑社の検定合格本の思想的ラインで教科書をともかく継続するということが大事だったということになるのであろう

(4)平成24~27年度版育鵬社歴史教科書

検定申請本・合格本 
「このとき、日本軍によって、中国の軍民に多数の死傷者が出た(南京事件)。この事件の犠牲者数などの実態については、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている」(209頁)。

  小山のコメント……自由社初版と同じく、「事件」を最初から肯定する形で、検定申請していた。しかも、自ら、「資料の上で疑問点も出され」を削除している。明らかに、「事件」肯定の立場を確定させたのである。


Ⅲ、自由社改訂版……「事件」否定の立場から初めて書いた

(5)平成24~27年度版自由社歴史教科書

検定申請本
単元77「日中戦争」下、
「日本軍による南京占領の際に、中国の軍民に多数の死傷者が出たことが、のちに『南京事件』として宣伝されるもとになった。」

検定合格本
単元77「日中戦争」下、側注⑤
「南京占領の際に、日本軍によって中国の軍民に多数の死傷者が出た(南京事件)」(225頁)

  小山のコメント……申請本は、「事件」の存在自体を認めておらず、むしろ「事件」は宣伝によってつくられたものであることを書いていた。そして、執筆者及び編集者と教科書調査官との激しい応酬の末、「事件」を認める記述をさせられる。しかし、同時に、検定過程のやり取りの中で、史上初めて「通州事件」を記すことに成功した。詳細については、『WILL』6月号所載の藤岡信勝「『南京大虐殺』を教科書に載せるな」参照のこと。


  二、「南京事件」肯定とは、育鵬社既定の方針ではないのか

  以上のように、扶桑社、自由社、育鵬社の検定申請本の記述を読み比べてみると、今回の育鵬社の記述が明らかに扶桑社版からの方針変更によるものだということが知られよう。育鵬社の声明は大嘘なのである。扶桑社版は、申請本では、二回とも、東京裁判と絡めることによって、「事件」の存在に疑義が生まれるような工夫がされていた。 だが、育鵬社は、最初から「事件」を肯定する立場から記していたのである。

  一応、育鵬社声明は大嘘だと断罪しておくが、実は、次のように考えるほうが正解なのかもしれない。前回の記事で、私は、扶桑社編集部の中心人物であり、育鵬社教科書事業部長である真部栄一氏について、藤岡氏の次の証言を引いた。今回も掲げることにする。

  実は、今の教科書をつくる過程でも、私は扶桑社の教科書担当者の真部栄一氏とものすごい厳しいやりとりをしてきたのです。文科省にすり寄るということをとにかくやるからです。真部氏は文科省の要求以上の、驚くべきほど日本を悪者に描く訂正案をつくってきた。  (『自由』2008年2月号)

  このように、真部氏と藤岡氏は、歴史教科書の内容をめぐって対立していた。検定申請本の方は、基本的に藤岡氏の主張が通って、「事件」否定に多少ともつながる書き方がされていたが、文科省の検定過程を経て、真部氏の考え方に基く記述が検定合格本では採用された、ということではないだろうか。と考えれば、真部氏にとっては、「事件」を最初から肯定していた育鵬社の検定申請本は、扶桑社時代から自分が考えていた方針を踏襲したにすぎないということになるのであろう。

   
  「日中戦争」の単元本文(側注「南京事件」の記述を含む)は、育鵬社による盗作である

  なお、扶桑社の検定合格本と自由社初版の検定申請本・合格本とはほとんど同一文である。それは、この単元の著者がともに藤岡氏だから、おかしなことではない。ところが、扶桑社版検定合格本と育鵬社申請本・合格本も、著者が違うのに酷似しているのだ。つまり、扶桑社及び自由社から、「日中戦争」の単元本文と側注を盗作しているのである。どうも、このことにきちんと気付いていないようである。恐らく、「南京事件」の側注は、少なくとも合格本は真部氏の作文なのであろう。だが、平成21年8月25日東京地裁判決では、単元本文と側注をまとめて著作権の帰属を考えている。扶桑社の「日中戦争」の単元の著作権は、本文と側注を含めて、藤岡氏に帰属するのである。


   なお、以下の記事を参照されたい。
   https://kenpokominrekishi.seesaa.net/article/201201article_4.html


 最後に--中国に屈服して「事件」を認める方針が決まった

  しかし、これまでの記事で何度も述べてきたように、平成19年の教科書改善の会は、「南京事件」を肯定する立場ではなく、肯定とも否定ともつかない立場から記すと明言してきた。その約束がなぜ、反故にされたのであろうか。もしも、八木秀次氏らが「事件」肯定の記述方針に反対すれば、申請本から「事件」を認める記述がなされることはなかったであろう。八木氏らは、中国社会科学院との交流の中で、「事件」否定の立場あるいは中立的な立場を捨て去ったのであろう。中国の圧力と育鵬社編集部の自虐的な思想が合体して、「南京事件」肯定の記述が最初からなされることになったのである。

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